一応前回の続き。
妙義神社を後にし、富岡製糸場へ向かう道の途中に 貫前神社 はあった。
ここは1500年の歴史を持つ神社であり、また、日本3大下り宮の一つとして有名。
下り宮とは、石段を下がって行った先に社殿があるという、大変珍しい造りの神社の事だそうだ。
他2社は九州で、一つは宮崎県・鵜戸神社、もう一つが熊本県・草部吉見神社。
他にも探せばポツポツあるらしいが、私はネットでこの神社を見て知った半年前まで、そんな造りの神社がある事を全く知らなかった。
それまで神様を見下ろすのは良くない事だと認識していたし、実際、神社の隣りに高いビルを建てようとして神社サイドから反対されたという話を小さい頃に聞いた事もあるので、この事実は衝撃的だった。
この時は日帰り旅行で、最後に製糸工場にも行くつもりだったので、周りの宝物館や、お隣の日本伝統的建築の富岡市社会教育館(国の登録有形文化財)などは飛ばしてしまっている。
宝物館は収蔵数400点ほどらしく(全て展示されているかは分からないが)、この時は「江戸捕物道具」という企画展が開催されていた。
次回、時間が来る事がある時は、是非両方ともじっくりと見物させて頂きたいと思っていいる。
朱塗り総門を道路から。
手前の銅製燈籠が立派だしデカい。市指定文化財。
この燈籠、よく見ると名前が沢山刻まれている。一両二分・何とかエ門とか、やたら古そううな名がずらり。
横の案内板を見ると、慶応元年(1865)制作、慶応二年に建てられたと書いてある。献納者の数は合計1544名、総額4790両。よく分からないが超大金そうな気がする。
地元の多数の養蚕農家をはじめ、上州・江戸・横浜の生糸・絹商人らが献納したとあるので、ここが富岡製糸場と深い関わりがある事は容易に想像がつく。
因みに、富岡製糸場が完成したのが明治5年(1872)だそうだ。
総門からすぐに本殿(下)へと繋がる石段があるのだが、まずは左側の仮殿敷地から。
仮殿敷地は総門と同じ高さである。
入口に高さ15メートルの大変立派な大木が立っている。
スダジイという木らしい。初めて聞いた。
何と樹齢推定1000年だそうだ。
数本の枝幹が成長し合わさり一体となったそうで、その奇妙な幹は重厚で威厳すら感じられる。
説明板があったので貼っておく。
幹も凄いが、元気いっぱいに広げた枝葉も凄い。近くでは全くカメラに収まらない。
千年も天地の力を受け生き続けるその姿は、我々に勇気と元気を与えてくれる気がする。
仮殿敷地には日枝神社と伊勢内宮・外宮、そしてずらりと二十二社がある。
この中で一番大きい、日枝神社さんにご挨拶させて頂く。
こちらは本殿と比べると全くの派手さが無い。
この様に、色彩もすっかり落ちてしまっている。修復される予定はあるのだろうか?
しかし、静かで広々とした空間であり、とても落ち着く。
この敷地から本殿を見る事が出来、神様を見下ろしている事にちょっとドキドキ。
一旦外に出て、改めて総門から入り直す事に。
眼下に楼門が見える。やはり結構下っている。不思議な景色。
こうして見直すと、立派な杉の木が何本も立っているのがよく分かる。
この一番奥に「藤太杉」がある。以下はWikipediaから抜粋↓
樹齢1200年といわれる大杉で、本殿の裏に立つ。平将門討伐のために出征した藤原秀郷が戦勝祈願として年齢と同じ36本の杉を奉納したうちの1本とされる。
藤原秀郷の別名が「俵藤太」である。
地元周辺では藤原秀郷に関係する神社が多いので正直「ここでもか」感がある。
藤太杉は幹のみが残っている。
下る途中の左側に月読神社がある。
この楼門までくると、まずこの正面に置かれた蛙に目が行く。↓
楼門の手前右側に小さな社務所があり、そこで一体1500円で購入することが出来る。
因みにそこで御朱印も貰えるそうだ。(私は集めていない)
しかしなんで蛙なのか。その答えはこの画像の中にある説明文に。
太平洋戦争末期、総門東のタブの木に蛙に似たサルノコシカケが現れた。貫前神社に御祭神「経津主神」が武勇に優れていた事もあり、「勝って帰る」「勝ちがえる」として参拝者が非常に多かったらしい。また、貫前神社所有の重要文化財「白銅月宮鑑」に蛙があらわされている。以上の事から、「無事帰る」祈願のお守りとして作られたようだ。
この写真の蛙達は役目を終えたもの達。なかなか可愛いフォルムをしている。
楼門を潜り、いよいよ・・・・
何て鮮やかな事か!!
細やかな文様にも息を呑む。
中も凄まじい。芸術品が所狭しとギッシリ詰まっている様な壁と天井!
実に恐れ入った。
本殿。
・・・。
贅沢!なんて極彩色!絢爛豪華!派手!
この獅子がドヤ顔にすら見えてきた。
しかし締まる所は締まっててカッコいいわ。
綺麗に修復・保存してくれて本当に有難う。
この本殿は単層2階建てで「貫前造」と呼ばれる独特な造りである。また、内部は2階構造になっていて上段に神座が据えられ、稲含山に向けて「雷神小窓」が設けられている。
↑太字部分Wikipediaからの抜粋。
また、説明板もあったので画像貼っておく。
この説明板の左側に記載されている「抜鉾若御子神社」についてだが、元々は安閑天皇の時代からだとあるので、西暦531~535年の頃と大変古い様だ。(安閑天皇は66歳で即位し僅か4年で崩御)
現在は本殿の左奥にひっそりと建っている。小さいながら立派な社だった。
この「抜鉾」という名が気になる。
というのも、この神社に残されている明治以前の史書によると、「貫前神社」と「抜鉾神社」という2つの記載があるらしい。
これには2神2社が2神1社になり1神1社になったとする説と、元々「貫前」も「抜鉾」も同じ神だとし、1神1社とする説と、様々な説が行き交っている様である。
私の様など素人が何も言うまい。
しかし、この「抜鉾若御子神社」の存在は興味深い。
と、振り返ってみても駆け足で写真がいつも以上に抜けていたり、更には見てもいない所もあった。大鳥居も見逃している。悔しい。
いつか再訪したいと思う。
この旅の最後は、折角富岡まで来たという事で、富岡製糸場で締めくくった。
解説員によるガイドツアーは何とたったの200円で参加出来るので利用させて頂く事にしたのだが、私の様な何も知らない者には大変有難かった。
きっと解説無しだったら理解不足のまま帰っていただろう。
この製糸場が日本の産業において如何に重要であったか、どうして世界遺産に迄なれたのかが理解出来たつもりである。
群馬は行けば行く程に興味を惹かれ好きになってくる。
また近々どこか観光に行きたいと思う。
次は赤城神社かな?